一階にいたときは気付かなかった白梅の花が何輪か、ベランダの壁越しに見えます。
その楚々とした姿に、思わず口元がほころびます。
花を見るたびに自分の口元や胸元が緩むような感覚に和みます。ふと、「咲」を「えみ」と読ませる女優さんの顔が浮かびました。古事記だったでしょうか、「八百万神共に咲(わら)ひき」とあり、古は「咲」も同じ「わらう」ことをあらわす言葉であったことに、思い及んでうなずきます。
そういえば、その頃は「目」と「芽」「歯」と「葉」、「鼻」と「花」おまけに「身」と「実」、
人の体の部位にまで対比があり、自分たちをあたかも草木、花木のように感じていたらしい古代の日本人が偲ばれます。
思いはさらに広がります。
「さいわい(幸)」という言葉は「さきはひ」というのがもともとの言葉だそうです。
「はひ」は「ワイ」と読み「延ひ」と書き「~し続けて」の意味、「さき」は「咲き」。つまり「(花が)咲き続ける」というのが「さいわい」のもともとの意味なのです。「幸い」とは、「花が咲き続ける」こと、とは日本人の幸福感の、なんと具体的で五感的なことでしょうか。
われに返ればパソコンの前、言葉のあれこれに気を取られていた耳に雨音、それに混って小鳥たちの歌声。小鳥たちの何と近しく感じられることでしょう。われもなく聞きほれていると、隣の部屋から家人がひと声、
「洗濯物!」
駆け上がる足音に小鳥たちの鳴き声がひときわ高く響き、言葉の白昼夢がはたと途絶えたのでした。